変えられないものと変えられるものを分けることの大切さ

こんにちは、パートナーズ補聴器の深井です。ご覧いただき、ありがとうございます。
さて、ここ最近、アドラー心理学の本ばかり読んでいるのですが、このアドラー心理学を学んでいくと色々なことに気付かされます。
例えば、恐らく多くの不幸は、変えられないものと変えられるものを分けず、変えられないものに執着することによって、起こっているのではないか。そんなことも思います。
ですので、より一層、変えられないものと変えられるものを分けること。ここが大事になるのですが、一通り、アドラー心理学 嫌われる勇気を読んでみて、感じたことを記載していきます。
変えられるもの、変えられないもの
この本を読んでいると、いかに変えられないものと変えられるものをわけ、変えられるものに集中していくか。そこに集約されているのではないかと気付かされます。
この本の中に出てくるもので、主なものは、
- 原因論と目的論
- 自分と他者の課題の分離
- キーネーシスとエネルゲイア
があるのですが、どれも、よくみてみると、変えられるもの、あるいは、コントロールできるものと変えられないもの、自分コントロールの範囲外のもの、というように分けられます。
原因論と目的論とは、原因があるから行動できない、と考えるか、その先の目的を回避したいから、行動できない、なのか。ということです。
原因論のわかりやすいのは、こういったことがあった、つまりトラウマがあるから、行動できない、ということです。それに対し、目的論は、トラウマがあるから行動できないのではなく、その先の目的、仮に何か失敗したら、また失敗するんじゃないか、あるいは、失敗して周りから変な目で見られたくないから、それを回避したい。という考え方です。
原因論の問題は、トラウマがあるから行動できない。になると、それでで終わってしまうことです。こうなると、そのトラウマそのものを否定しない限り、変えられません。
実際には、過去はいくらでも解釈を変えることができるので、個人的には、目的論に軍配が上がるのですが、変えられるものと変えられないものという対比でみると面白いですね。
自分と他者の課題の分離もそうです。課題の分離自体は自分でできることです。しかし、他者がどのように自分に対して思うのか、どう感じるのかは、自分ができることではありません。
そういった自分の影響が及ばないところ、あるいは、コントロールできないところを無理やりコントロールしようとすると、相手に干渉することになるので、イザコザが起こりやすくなる。という流れですね。
最後にキーネーシスとエネルゲイアというものもそうです。キーネーシスは、スタートとゴールがあり、そのゴールに辿り着くことを目的とします。エネルゲイアは、今なしつつあること。がそれなのですが、スタートもゴールもなく、行為そのものを行うことが目的です。
キーネーシスは、点で考える人生で、例えば、何歳までにここに行って、何歳に結婚、何歳に子供が何人で、年収◯◯◯万円といった計画した人生ですね。
しかし、問題は、そういった計画した人生は可能なのか。というところです。
人生は大体の場合において予想しないことがおきます。それは、勤めていた会社が倒産するとか、その会社にリストラにあうとか、さらに自分自身が重い病気にかかるとか、予期せぬことが起こります。
こういった自分にとって悪いことまで計画している人は私は知りません。人というのは、実に都合の良い生き物で、計画するのは、たいてい自分にとって良いことを中心に計画をしますよね。
であれば、おそらく、キーネーシス的な人生というのは、無理。もっというとそもそも人生をコントロールすること、思いのままにすることは、できないということになります。
それをコントロールしようとしたり、思いのままに操ろうとすると無理が出てきて、自分が考える理想の人生と比較した時に不幸を感じる。ここの時にこれだけのことができている予定ができていない。なので、失敗。みたいな感じです。
エネルゲイア的な人生は、そういった計画はせず、今現在、自分ができることに集中する。ということです。
これは無計画のように思えますが、おそらく人生というのは、それしか実際にできることがないのでしょう。
キーネーシス的な人生は、自分がコントロールできない部分、自分の影響を及ぼさない範囲のものまで背負ってしまっているので、不幸になりやすい。
であれば、ここも同じで、人生をエネルゲイア的に考える必要がある。ということです。できることとできないことを分ける。まさにキーネーシス的な生き方とエネルゲイア的な生き方というのは、これを分ける生き方とも言えます。
不幸の源泉
ここで気づくのは、不幸の源泉は、自分が変えられないものに注目すること、そこに干渉したり、執着することだと言えます。
原因論(トラウマ)に注目することも、課題の分離をせず、他者の課題を自分の課題だと思い込むことも、キーネーシス的に人生を考えることも、全て、自分が変えられないものに注目したり、干渉したり、抱え込む、執着することによって、起こっていますよね。
つまり、不幸の源泉とは、変えられないものに執着する心そのものではないかと感じます。
変えられないものを無理に自分にとって都合よく変えようとしたり、コントロールしようとすると、手痛い反動がきます。
で、ここは、あくまでも私自身が感じたことですが、変えられないものを無理に自分で変えようとする場合、何が起こるか。どのようなことをして、変えようとしてくるのか。
それが権力や権威、地位といったものなんだろうな。と思います。
自分が優位な状況を作り、無理やり屈服させたり、相手を服従させる。そのようなものが存在するということですね。
普通に考えれば、一対一で対話して、お互いに理解していたり、お互いが「それいいね!」となるような内容であれば、無理に相手を変える必要もないですし、権力も地位も権威も必要ありません。お互いが納得しているからです。
しかし、何らか、自分が思っているように事が進まなかったり、思うようにコントロールしたいという欲が出てくると、人を動かす力が必要になります。
そのさきが上記のものであり、本当は他者の課題なのに自分が土足で踏み込んだり、本当はコントロールできないことなのにコントロールしようとすると、変になります。
一方的に屈服させられた相手は、屈服させられたことをずっと覚えているものです。屈服させた張本人は、全く覚えていなくても。
変えられないものを無理に変えようとした先は、無理が生じた世界で、より複雑化していく世界とも言えます。
まさに無理を通せば、道理は引っ込む。近道をいくのではなく、地道でも良いので、一つ一つ、対話をおこなって、なるべくお互いにとって良い道を目指したいところですね。
まとめ
さて、アドラー心理学 嫌われる勇気という本を読んで、自分が感じたことを記載してみました。
自分が感じたのは、まさに変えられるものと変えられないものを分ける。ということです。変えられないものは、そのままにし、変えられるものに集中する。恐らく多くの不幸は、変えられないものに執着していることから起こっていることのように思います。
仏教には、執着を捨てよ。という言葉がありますが、まさにそういうことなのでしょう。自己の執着を捨てる。そこからまた見えてくるものがありそうです。
そのためのポイントとして、アドラー心理学では、自己受容、他者信頼、他者貢献の3つを出しています。自己を受容し、他者を信頼し、そして、他者へ貢献していく。
この際に意識することは、自分は他者に何ができるのか。他者へ関心を寄せ、その他者に貢献していくことです。
アドラー心理学 嫌われる勇気は多くのことを教えてくれました。おそらく、また忘れた頃に読み返すと思いますが、その時にも新たな気づきを得られそうです。
ということで、気になった方は読んでみることをお勧めします。教えの実践は、かなり難しいのですが、色々と気づきはあると思います。