知っている事より、理解する気持ちの方が大事
色々と仕事に慣れてくると、知っていることが増え、その事から、理解した気になる事が多くなってきた気がします。
多くの知識を入れると入れるほど、そういった傾向が出てくるのですが、個人的には、知っている事より、理解する気持ちの方が大事だな。と最近、感じるようになりました。
ソクラテスの無知の知。自分はまだ知らないという事を知らなければならない。では、ないのですが、そういった事を感じます。
データだけ見て、理解した気になる危険性
私の仕事上、耳の状況を聴力検査などのデータで見る事が多くあります。
色々と経験してくるとデータを見るだけで「おそらく、こんな状況かな」「こういったところでは聞きにくそうだな……」というのは、なんとなくわかってきます。
この感覚は、経験上になりますので、知っている事。と言えば、そうなのですが、個人的には、結構、この感覚は、危険だな。と思う事があります。
その理由は、聞こえにくさに困るレベルというのは、聴力だけではなく、環境も大きく影響するからです。
困るレベルは、聴力と環境により変化する
意外かもしれませんが、聞こえにくさに困るレベルというのは、必ずしも、聴力だけで決まることはありません。
聴力低下が少なくても、仕事上、働く環境下がシビアで、聞き逃しが許されないような環境だったりするとだいぶストレスがかかり、聞きにくさや困るレベルというのは、上がりやすくなります。
また、周りに頼れる方がいないケースも同様で、このようなうまく意思疎通ができないケースは、聞こえにくさに困りやすくなります。
一方、聴力低下が少し重くても、周りの方が気を使ってくれて、わかりづらいものは、メモで表現してくれたり、音ではなく、聞こえにくい方が伝わりやすいコミュニケーション方法を使ってくれたりすると、実は、聞こえにくいストレスは、だいぶ減りやすくなります。
聴力によって、聞こえにくいことによる困り度は、決まりやすい傾向はあるのですが、聴力によって、全てが決まる訳ではありません。
聞こえにくい状態で、一番困るのは、コミュニケーションの部分です。普通は、音声でコミュニケーションをはかります。
しかし、コミュニケーション方法は、何も音声しかない訳ではありません。手間はかかりますが、文字だとか、目で見えるような形で、コミュニケーションする方法もあります。
ですので、聴力によって、聞こえにくいことによる困り度は、決まりやすい傾向はありますが、それだけで、全てが決まる。という訳でもないのです。
知っているという意識を捨てる
元々、私自身は、自分自身が生まれつき聞こえにくいこともあり、聴力データだけではなく、その人がどんなところで困りやすいのか。は、個人的に興味がありました。
先入観を捨て、知っているという意識を捨てながら、対応していくと、個人的には、発見が多いです。
例えば、似たような聴力の方でも、言っている事が異なったり、気になっているポイントは、変わります。
いくら似たような聴力の方でも、その方の境遇、音の感じ方、働いている環境などは、一緒ではないので、当然ですね。
ですので、こういった聴力は、こう。このような聴力は、こう。というようなステレオ的な対応をするのではなく、その人を理解することの方が大事なんだな。という事に最近、改めて気づきました。
ちなみにこのように表現するのは、上記のように聴力データだけでは、わからないところがあるからです。
測定において大事な事は、測定をすることではなく、この測定は、何がわかって、何がわからないのか。をきちんと把握する事になります。
その足りない部分をちゃんとお話を聞いて、理解した方が良い結果になる。ということを体感的に理解しているから、こういった発想になるのかもしれません。
まとめ
とりとめない内容になってしまいましたが、最近、感じたことを載せてみました。
気のせいかもしれませんが、最近、色々とわかる事が増えてきたせいか、逆にそれを知るだけで、まるで全てのことがわかるような一種の錯覚を感じることが多いように思います。
補聴器の世界だと、聴力検査の数値をみて、その人の状況を全て理解できるような感覚でしょうか。
実際には、聴力検査には、聴力検査を行うことでわかる事と、行なってもわからないことがありますので、全てを理解することは、できません。
だからこそ、ちゃんとお話を聞いて、どういった状況なのか。は、理解するようにするのが、大事だと個人的には思います。
知っている事より、理解する気持ちの方が大事。ということですね。