音を耳で分解するか、補聴器側で分解するか
補聴器で聞こえを改善する際の一つの考えとして、すべての音を耳に入れて、脳を鍛え(聴能といったりします)、そこから音声やノイズを聞き分けるやり方と、あらかじめ補聴器側で音をある程度、分解し、ノイズを抑えることで、音声を中心として音を入れる考えがあります。
いわゆる聴能的考えと補聴器的考えとでもいうべきか、聞こえを改善するといっても今現在の補聴器は、低下した部分に音を入れるだけではなく、音を抑える機能を活用しながら、聞こえを改善しているため、様々な考えがあります。
私の場合は、主に聴能的考えだったりするのですが、ただ正直、耳の状況というのは、人によって異なりますので、実際には、「この方はこっち側の考えの方がいいだろうな」「こっちの人は、これかな」と分けています。
昔は割と議論があったのですが、たまに詳しい人から聞かれることがあるので、この点に関してまとめていきたいと思います。
聴能と騒音抑制
補聴器といえば、低下した聴力を補う機器です。しかし、その実態は、リハビリ機器である部分も多いです。
というのも聴力が低下したり、聞こえにくくなるとそれだけ、音を聞いていなかった期間や脳の方に音の刺激がいっていないため、ある意味、再度、その音を覚え直す必要があります。
生まれつき難聴の方なんかは特に躊躇で、元々、聞こえていない状態になりますので、補聴器をつけて、「世の中には、こんなにたくさんの音があるのか!」と、音そのものをはじめに覚えていく必要(自覚、認知していく必要)があります。
なぜなら音というのは聞こえないとその存在に気づくことができず、音は感知することで初めて、その存在を理解するからです。
高い音が聞こえていない方は、冷蔵庫が開けっぱなしになるとお知らせしてくれることも、洗濯機が洗濯終わった際にお知らせしてくれることも、お風呂の湯張りが完了した時にお知らせしてくれることも知りません。
音は感じないと、その存在に気づくことができない。音は匂いもしなければ、目に見えるものでもないからです。
ですので、特に教育の分野では、聴能といわれる考え、今現在の補聴器の中にある抑制機能を働かせるというよりも、勝手に補聴器の方で音をに抑えないで、しっかりと音を入れて、まず音を認識し、脳を鍛えてから自分の脳で音声とノイズを分ける。という考えが割と根強く残っています。
自分の脳で直接理解するか、一般の人が自動でそうしているように自分の脳でそのように処理して、聞き取りをできるようにするか、それとも、補聴器の機能で支援してもらいながら理解するか。こういった考えがあります。
なぜそう考えることになったのか
聴能的考えについて、少し補足をすると、なぜそんなふうに考えるようになったのか。ここが大事になります。
これは、先ほどの”音は聞こえないとその存在に気づくことができない”という部分が強く影響しています。
聴能的にいうと、”音は感知しないと、そもそもその部分を鍛えることができない”になるのですが、これが答えですね。
補聴器側で音を処理したりすることは確かにできるのですが(できるといっても限度はあります)、それをすると、今度、脳は、そもそもそういった音があることを知ることができません。
上記の通り、音というのは、匂いもしなければ目に見えるものでもありませんので、補聴器側で勝手に処理されると、そもそも当の本人はその音の存在に気づくことができなくなってしまいます。
音は聞こえることで初めて認知し、さらに認知して意識できるようになってから、そういった能力、聞き分ける力だとか、聞くとかの処理が脳ができるようになります。
これを勝手に補聴器側がしてしまうと、そういった処理をする力も認知する力も、さらに分離する力も、自分の脳に負荷をかけることで発達する、あるいは、習得できる機会を奪うことになります。
いい例えかわからないのですが、歩く訓練をすれば歩けるようになる人を車椅子でずっと移動させるようなものでしょうか。
歩くことをすれば、足の筋肉がついたり、歩き方を覚えたり、歩く際の足の使い方を覚えたり、いろいろな部分が身に付きます。これを反復練習し、何度も何度も行うことで、人は歩けるようになったりしているわけですが、ここの部分を奪ってしまうようなものです。
もちろん、そこがどうも訓練や聴能を鍛える、音をたくさん入れる、補聴器を使用する時間を伸ばすことによって、伸ばすことは難しそうだ。という判断がつけば、そのようにするのは、良いと思いますが、その前から可能性を潰すことは、良いことなのか。と言われると、なかなか考えさせられる内容だと思います。
ここが大事なポイントですね。
周波数分解能をどう解決していくか
で、さらに時代は進み、耳の状況に関して、まだまだわからないことがあるものの、一つ、わかる部分も出てきました。
それは、内耳と呼ばれる部分が何らかの要因によって損傷している方、例えば、感音性難聴の方(私がそうですね)や、老人性難聴の方、突発性難聴の方やメニエール病の方など、今現在、耳を治す手段がない方は、内耳の中の有毛細胞が損傷することにより、うまく音が捉えられないことがわかってきました。
簡単に言いますと、有毛細胞が傷つくことで、細かな音の周波数の分離ができず、音がくっついて聞こえるような現象が起こります。
周波数が細かく分離できないため、子音が似ている言葉が一緒になったり、聞いたときに「どっちだ?」と考えたり、周りが騒がしいと、周りの音に音声が覆いかぶさり、さっぱり音声が理解できなくなったり、これが多くの悪さをしていることがわかりました。
一般の方は、細かく周波数を分解できるので、些細な音の違いや細かな違いが理解できるのですが、感音性難聴の方や老人性難聴の方、内耳の中の有毛細胞が損傷している方は、その細かな部分の聞き分けができないということです。
問題はここからになりまして、では、それは努力で解消できるものなのか?今度はここが焦点になりました。
言い方を変えると、上記に出てきた聴能で、音を入れて脳を鍛えれば何とかなる問題なのか?という事です。
ここは今現在、まだまだ研究中で結論は(確か)まだ出てなかったはずです。ただ、個人的解釈で言うと「結構厳しそうだ」という感覚を持っています。
文字通り、ここからはもう神経の損傷の問題になりますので、神経の損傷系の問題は、努力すれば、どうにかこうにかなるような問題ではないことが大半です。
この周波数分解能は、至る所で問題を引き起こしており、語音明瞭度という音声の理解度が低下する一つの要因にもなっていますし、騒がしい環境下になると急激に補聴器による聞き取りが弱くなってしまうのもここが一つの要因です。
まさに補聴器はこの周波数分解能をどう解決していくか。という問題に直面しているわけですね。
個人的にどう考えているのか
正直なことを言いますと、私自身は、人によって変えている。というのが実情です。
まず、前提として記載したいのは、どっちが合っていて、どっちが間違っているのか。というのは、ない。ということです。
私はどちらの考えもよくわかりますし、どっちの考えも正解だと思っています。
例えば、聴能的考えに関しては、脳のことがわかる方であれば、その通りだと感じる方も多いのではないでしょうか。実際に音を入れ、補聴器の使用時間を伸ばすことにより、徐々に理解や聞きやすくなっている方もいます。
この場合は、元々その能力があったから。という前提を忘れてはいけないのですが、仮にそういった能力、あるいは、力があるのであれば、それは活用した方がその方にとって良いことでしょう。実際に生活も聴こえもよくなることにつながるからです。
また、補聴器側で抑制機能を使って補助してあげる。という考えも同様です。
補聴器側で補助してあげることができれば、その分、楽にはなりますし、よくなることも多くなります。
確かに上記のような欠点はあるかもしれないのですが、中には、元々の耳の状況からして、聴能的考えが厳しい、合わない方がいるのも事実です。
ですので、どちらが良いか、というよりも、どちらが自分に合いやすいかの問題であることが多いですね。
あくまでも私の経験上ですが、生まれつき難聴の方などは、聴能的考えの方が合いやすく、途中で失聴した方は、補聴器的考えの方が合いやすい傾向があります。
生まれつき難聴の方の有毛細胞と、中途失聴の方の有毛細胞の状況がどう異なるのかは私にはよくわからないのですが、感性なのか、好き嫌いなのか、このように別れることが多いように感じます。
まとめ
たまにこういったお話がお客さんの中から出てくることがありますので、かなり難しい内容にはなるのですが、こちらに関して、記載してみました。
私の場合は、補聴器は難聴の方の生活を支える道具である。と考えていますので、正直、聴能的考えでも、補聴器的考えでも、使う方の生活を支えられるのであれば、どちらでも良いと思っています。
ちらっと記載させていただきましたが、こう考えていますので、私の場合は、どちらが良いか、というよりも、どちらが使う方に合うのか、合いやすいのかの問題であることが多くなりますね。
どちらにしてもこの二つのものは、あくまでも手段に過ぎません。聴能的考えを行うこと、補聴器的考えで行うことが目的ではない。ということです。
私にとって大事なのは、難聴の方の生活を支えられるようにすることですので、その方に合わせて変えている。というのが私の場合の実情になります。